小田原市
 小田原市は、東西17.5km、南北16.9kmで、南西部は真鶴町、湯河原町、箱根町と、北部は南足柄市、開成町、大井町と、東部は中井町、二宮町とそれぞれ境を接しています。面積は114.06kuで、神奈川県の面積の4.7%を占め、県内の市としては、横浜市、川崎市に次いで3番目の広さを有しています。少し視野を広げて首都圏を見ると、小田原は関東地方の西の玄関口であり、静岡県や山梨県などとの県際交流の拠点、さらに東海地方、近畿地方との結節点となっています。

 小田原は古くから地理的に重要な位置にあり、千数百年以上前から東西交流の動脈線上の拠点として発展してきました。現在、市内には小田原厚木道路、西湘バイパス、箱根新道のほか3本の一般国道など幹線道路がめぐらされ、鉄道5路線の結節点ともなっています。背後に富士箱根伊豆国立公園を控えて、交通の要地としての大きな役割を担っています。市域の南西部は、大部分が箱根連山につながる山地で、東部は大磯丘陵につながる丘陵地帯であり、また中央部には、酒匂川が南北に貫流して足柄平野を形成し、南は相模湾に面しています。

 気候は温暖で、植物の生育に適し、丘陵地やその周辺ではミカンやウメの栽培が盛んです。また、足柄平野では豊富で良質な水を資源として、農業、工業が、相模湾では沿岸漁業と、幅広い産業が営まれています。また、夏は涼しく冬は暖かいうえに、風光明媚な自然環境を有しているため、明治から昭和初期にかけて保養地として多くの著名人が訪れました。

【名所・旧跡】小田原城址公園、石垣山一夜城歴史公園、二宮尊徳(にのみやそんとく)生家、尊徳記念館、小田原文学館、辻村植物公園、曽我梅林

【特産・地酒】かまぼこ、ひもの、梅干し、寄木細工、漆器、清酒智恵袋、梅ワイン・みかんワイン・れもんワイン

【イベント】梅まつり(2月)、桜まつり(4月)、北條五代祭リ(5月)、小田原ちょうちん夏まつり(7月)、みなとまつり・花火大会(8月)、一夜城まつり・さかなまつり(10月)、農業まつり・ツーデーマーチ(11月)

【主な出身者】二宮尊徳、北村透谷(文学者)、夢枕獏(作家)、阿藤快・柳沢慎吾(タレント)、島田祐子(声楽家)

 

 
小田原城
 小田原城が初めて築かれたのは、大森氏が小田原地方に進出した15世紀初めごろのことと考えられています。明応4年(1495)に戦国大名小田原北条氏の居城となってから、関東支配の中心拠点として次第に拡張整備され、豊臣秀吉の来攻に備えて城下を囲む大外郭を完成させると城の規模は最大に達し、日本最大の中世城郭に発展しました。

 江戸時代を迎えると小田原城は徳川家康の支配するところとなり、その家臣大久保氏を城主として迎え、城の規模は三の丸以内に著しく縮小されました。稲葉氏が城主となってから大規模な改修工事が始められ、近世城郭として生まれ変わりました。その後、大久保氏が再び城主となり、箱根を控えた関東地方防御の要衝として、また幕藩体制を支える譜代大名の居城として、幕末まで重要な役割を担ってきました。

 しかし、小田原城は明治3年に廃城となり、ほとんどの建物は解体され、残っていた石垣も大正12年(1923)の関東大震災によりことごとく崩れ落ちてしまいました。

 現在の小田原城跡は、本丸・二の丸の大部分と大外郭の一部が、国の史跡に指定されています。また、本丸を中心に「城址公園」として整備され、昭和35年(1960)に天守閣が復興、次いで昭和46年(1971)には常盤木門、平成9年(1997)には銅門が復原されました。さらに小田原市では、貴重な文化的遺産である小田原城跡をより一層親しんでいただくとともに、長く後世に伝えていくことを目的として、本格的な史跡整備に取り組んでいます。
 平成18年10月に、「日本の歴史公園100選」に選ばれました。
 
石垣山一夜城
 石垣山は、本来「笠懸山」と呼ばれていましたが、天正15年(1590)豊臣秀吉が小田原北条氏を水陸15万の大群を率いて包囲し、その本陣として総石垣の城を築いたことから「石垣山」と呼ばれるようになりました。

 この城が、世に石垣山一夜城または太閤一夜城と呼ばれるのは、秀吉が築城にあたり、山頂の林の中に塀や櫓の骨組みを造り、を白紙を張って白壁のように見せかけ、一夜のうちに周囲の樹木を伐採し、それを見た小田原城中の将兵が驚き志気を失ったためと言われています。しかし、実際にはのべ4万人が動員され、天正18年4月から6月まで約80日間が費やされました。

秀吉は、この城に淀君ら側室や千利休、能役者を呼び茶会を開いたり、天皇の勅使を迎えたりしました。

この城は、関東で最初に造られた総石垣の城で、石積みは近江の穴太衆による野面積みといい、長期戦に備えた本格的な総構えであったといわれ、度重なる大地震にも耐え、今日まで当時の面影が大変よく残されています。

この地は国立公園区域および国指定史跡に指定されています。

・公園面積 約5.8ha

・富士箱根伊豆国立公園
  昭和11年2月1日指定

・国指定史跡石垣山
  昭和34年5月13日指定

 
二宮尊徳生家
 二宮尊徳が郷里小田原(当時栢山村)で住んでいた家は、誕生の家と再興の家があり、誕生の家は、尊徳が16歳の一家離散の際に売り払われてしまいました。そして、24歳の時に寄食していた伯父万兵衛宅から独立した時、家を再建しました。

 再建した家は、37歳の時、下野国(栃木県)桜町の復興にあたって、移住のために売却しました。この家は粗末な小家屋であったらしく、売却後どうなったか明らかではありません。

 誕生の家は幸いに残り、柳新田の渡辺善太郎氏の住宅となっていたものを、尊徳記念館建設期成会が、昭和35年9月20日、尊徳の誕生した場所に復原し、市に寄贈されました。

 尊徳は、天明7年(1787)7月23日この家で誕生しています。この家の建築年月は明らかではありませんが、おそらく祖父銀右衛門が兄の万兵衛から分家して、その南側(尊徳誕生の地)に一家を創建立した時、造ったものと思われます。祖父の分家は、寛保2年(1742)と推定されるので、約二百数十年を経過した家です。転売、移築を重ねながら農家の住宅として使用されてきましたが、現在でも主な木材は手入れを要しない程堅固です。

 尊徳の父利右衛門が祖父銀右衛門から家督を譲られた安永6年(1777)の二宮家の所有田畑は、2町3反6畝(約23,400u)もありました。このことを考えてみると、当時の二宮家は、この地方の中流の農家であって、この家屋は、足柄平野の中流農家の住宅の典型といえます。

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